kieloの歴史講座~高校受験を考える~

kelo太郎とぶつかりながら、元教師kieloがマンツーマンで行った歴史の学習から、実際のノートの記録などを用いて、ポイント解説を行います。理解できたか確認するための問題や復習ドリルも準備したいと思います。

意外と大変!がんばれ聖徳太子(ノД`)

「思考力」って何さ!

聖徳太子さんって有名だよね。

すでに小学校で習っているし、余裕さっ(。-∀-) ニヒ。
なんて思ってたら、「思考力」身につかんぞっ。

    マジでっ!・・・「思考力」って何さ?だって、答えられるからいいだろっ

ぷんっ(-ε´-。))) 

これこれ、怒るでないゾ。あのね~、kelo太郎はそれぞれの言葉は覚えている。

それはそれで頑張った証だ!
しかぁーし!「なぜ」に答えられなくてテストで困ったことはないかい?

まぁ、あるけれど・・・

ね、そうだろ。いろんな言葉を暗記することが学習だって考えている人もいるけど、実はそれだけで理解したことにはならんのだなぁ。知っているってことと、理解しているってことは違うんだよ。言葉が自分に入力されても、本当の意味を分かって、出力することが出来ないと、本当にその言葉の意味を理解したことにはならんのだよ。簡単に言うと、覚えたこと使えますかぁ?っていうこと。もっと言うとね、その理解したことを使って、他の「なぜ」を考える手立てにすることが出来るかなぁということ。ちょっと難しいかな?

・・・よぉ分からん。でも覚えるだけじゃ使えねーってコトは何となく分かる・・・気がする・・・。んじゃ、試しになんか理解できるようにしてみてよ。

んじゃ、聖徳太子さん知ってるかい?知ってるってことと、理解しているってことが違うってことを試してみよう。

聖徳太子さん
★kelo太郎の聖徳太子さんについて知っていることリスト
 飛鳥時代に仏教文化を取り入れ、天皇中心の政治を行おうって頑張った人。
 十七条憲法や冠位十二階は超有名。法隆寺でしょ。あと小野妹子。遣隋使・・・。

Qなぜ聖徳太子さんは、こんなにいろんなコトしたの?結局何がしたかったのさ?


聖徳太子の生きた時代は大変な時代だったんだ。
 まず、天皇はいるけれど、それぞれの土地を支配している豪族がゾクゾクいてね。自分たちのやり方で土地を治めていて、天皇は口出すのが大変だったわけ。イメージすると、天皇は豪族連合の代表ってカンジかな?一豪族ぐらいの力しか発揮できない。もちろん、自分の土地や民はいるわけだけれど、国全体を治めていますって状態ではなかったようだ。
 ということで、豪族はそれぞれ自分の意見を主張するし、誰かが絶対的な支配力を持っているわけでもないし、争いや意見の対立が絶えなかったんだな。
 聖徳太子が10代だった頃、大豪族蘇我氏(そが)と、これまた大豪族の物部氏(もののべ)が戦争しているんだ。ケンカの理由は簡単。蘇我氏は渡来人の家系で仏教を信仰していたんだ。物部氏は当時日本古来の神々を大切にする仏教反対派。これに次の天皇を誰にするかっていう意見の違いがのっかって、戦争になってしまった。
 この時、聖徳太子は蘇我氏に味方して、自分も戦いに参加しているよ。だって、聖徳太子の祖母は2人とも蘇我氏の娘。さらに自分のお嫁さんの1人も我馬の娘だったんだよな。勝ったのは蘇我氏。

それじゃ、ここで負けてたら聖徳太子もいなかったし、仏教もいまみたいではなかったってことか。

ちょい足し ★本最古の寺院「飛鳥寺」を建てたのは馬子さんだ

  これが飛鳥大仏。聖徳太子さんとも合っている。かも?  飛鳥大仏(kielo撮影)

★石舞台古墳は馬子のお墓かも?と見られているんだ           

         

石舞台古墳の外側と内側(入れるんだよ) (kielo撮影)


そんな時に起こった国際的大事件・・・。


中国の大帝国「隋」の登場
やっべーぞ!内輪もめしていた中国の南北朝時代が終わっちまった!~

 589年に大帝国「」が中国を約400年ぶりに統一!その衝撃はただごとではなかったハズ。ちょうど聖徳太子のお父さんである用明天皇が亡くなり、だれが天皇になるかで、またまた豪族がすったもんだしていた頃だ。
 統一された隋は、政治のルール(律令)を整え、朝鮮半島の高句麗に進出し始めたのだ。外に向かって大帝国の勢力が移動しているということは、それまでの国同士のバランスが崩れるということ。さて、聖徳太子になって考えてみ。
(・´ω`・)困ッタナァ...いつか海渡ってくんじゃね?倭も内輪もめしている余裕はないんですけれど。
※ちなみに、まだ日本っていう言葉は使われていなかった。それいうなら、天皇って言葉も使われていなかったんだけどね。
 だよね。聖徳太子は高句麗から渡来した僧慧慈から隋の進んだ文化も学んでいた。聖徳太子の胸中を想像してみよう。今のままで倭は太刀打ちできるのか?


 隋の建国から3年後、女性である推古天皇摂政となった聖徳太子の使命感はハンパなかったのではないかな。なぜなら、聖徳太子は豪族の内輪もめよりも、もっと広い世界、アジアを見ていたからだ。

ちょい足し 摂政は天皇が女性または子どもの場合、その仕事を補佐する仕事をしたのだよ。ちなみに後の時代に出てくる関白は、成人した男性天皇の補佐をする人のことだよ。


 さて、ということで、内輪もめをなくして、なんとか豪族をまとめ、いざというときに一致団結できる国づくりは急務だったわけだ。


 まず行ったのが603年の冠位十二階の制定。内容知ってる?

有力な豪族出身でなくとも、能力のある人物が活躍できるようにしたってことでしょ。なんとか制をやめたっていう。


 うんうん。親の役職や位を引き継ぐ世襲制ね。ちょっと難しい言葉で氏姓制度って言う言葉があるけれど、それまでは、この身分ならこの役職ねという具合に、生まれ持った身分や立場だけで、能力なくても役職に就けたワケなのだ。
 しかし、冠位十二階には、もっと大切な意味があるのだな。それは、位を示す冠を天皇が与えるという仕組み。冠を与えることが出来るということは、与えられる人よりも立場が明確に上であることを示しているのだ。つまり、天皇はあなたたちよりずっと権威があるのですよってこと。天皇を中心にした組織を作るという意味合いがとても強かったのだ!


 さらに、この意識は翌年定められたという十七条憲法で強く現れることになる。
 ※一部抜粋です。


一に曰(い)わく、を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
※みんな仲良くすることを何よりも大切にして、争わないことを基本としなさい。
二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏法僧なり
※心から三つの宝を敬いなさい。三つの宝とは、仏、法、僧侶である。
三に曰わく、(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす
※天皇から命令を受けたときには、必ず従いなさい。天皇は天であり、臣民は地である。(天地が絶対に逆にならないように天皇と家臣の上下関係は絶対である)
※はkieloがkelo太郎にわかりやすく訳したものです、あしからず。  
つまり、ちゃんと天皇のいうことを守って、みんな仲良く、心穏やかに!っていうこと?つまり、豪族たちにケンカやめて仲良くしないと大変だぞってことが言いたかったのかな?

 
 まぁ、この憲法はあくまで役人向けに出されたモノで、一般人向けではなかったんだけ
れどね。十七条すべては書かんけれど、その後に続く条文もずいぶん納得できることをおっしゃっております。ズルしちゃいかんよ、とか。礼儀って大事よ、とか。早起きして一生懸命働こう、とか。興味持ったら調べてみるべし!

ちょい足し ここに至るまで、聖徳太子は推古天皇を補佐して、新羅に軍隊を送って、一説では軍事力強化にも力を尽くしていたらしい

遣隋使を派遣するぞ                      
 『隋書』に遣隋使小野妹子が持参した手紙が記録されている。書き出しはこうだ。
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)。
 この手紙、隋の皇帝である煬帝(ようだい)を激怒させた。なんで倭の王が「天子」何
だよってことみたいだぞ。「天子」っていうのは、この世を治める最高位なワケで、隋的に言うと煬帝1人ってコト。今まで、倭の王は中国の臣下扱いだったわけ。なのに、倭なんていうどっかの小さな国の代表者が自分のこと「天子」って言ってるわけだから・・・当然煬帝としては面目丸つぶれ。ヾ(○`з´)ノプンプン!!!
「二度とこんな失礼な国の手紙を私に見せるな!」という記録が隋書に残っているくらいだ。


聖徳太子が隋と対等な関係を結ぼうとしたって言われているんだよね。倭は、隋の家来ではないぞっていう意思表示だって。


でも、怒らせちゃったら元も子もないでしょ

ウ・・ ウン(-ω-`;。)。


 煬帝は、手紙で返事するだけでなく、自分の家来で位の低い裴世清(はいせいせい)さんを倭に送り込んでます。まぁ、このくらいの使者で充分だろってことかもね。それに、生意気な倭がどれだけの国か見てこいってね。
 でも、倭には、これはラッキーだと思うよ。わざわざ隋から手紙ばかりか、正式な使者までやって来たわけだからね。そこら辺に何か意味があったのかもと、kielo的に思う。
 他の国から見たら、倭に隋が使者を送ったらしいぞ、そんなに仲がいいのかってことに
なるよね。さらに、国内の豪族も天皇に大帝国隋からわざわざ使者が来たぞってことになれば、すごいぞ天皇ってことになる。


 日本の危機を脱するために、かなり頑張っています聖徳太子!
こう書いてくると、何か成功した感がある。しかし、実は根本的に解決できない問題があったんだ。


豪族蘇我氏の権威
 冠位十二階では、蘇我氏には冠が与えられなかったようだ。というのも、与える側に 
立っていたらしい。つまり、一豪族でありながら、その権力も立場も天皇、聖徳太子と同様の力を持ち、天皇中心の政治の例外であり続けたわけだ。
 この例外が暴走することは度々あったが、聖徳太子の死後(622年、一説では621年に大暴走する。馬子は626年に亡くなったが、蘇我氏一族の振る舞いはシッチャカメッチャカ。推古天皇に天皇個人の領地を譲れと迫ったり、聖徳太子の息子を殺害したりしている。

  なんだかなぁ。人って力を独り占めしちゃうと、自分勝手になっちゃうんだね。だれかが、見張ってて止めてくれないと・・・。独裁って言うんだっけ?

おぉ!すごいじゃん。それって、歴史の中で、いろんな人が何度も何度も失敗してきたことを理解するために、大切な視点だな。力を独り占めしない仕組みをどうやって作ったらいいのかっていう視点は、近現代史でも非常に大切。よしよし。

ちょい足し  余談ですが、これをずーっと見ていたのが、中大兄皇子なワケです。 中臣鎌足は、物部氏とともに蘇我氏と戦った一族出身なんだよ。


まとめ
さて、そこでkelo太郎に聞きたい!

Qなぜ聖徳太子さんは、こんなにいろんなコトしたの?結局何がしたかったのさ?
    答えを次の文章の空らんに自分の言葉で書き込んでみよう。

えぇーっと・・・・・

聖徳太子は(                 )ため、十七条憲法や冠位十二階などを定め、(                        )ように国づくりを行った。そして、その試みは(成功・失敗)したと考えられる。それは(                            )からだ。


はい、よくできました(*´∀`*)。


参考:東京書籍「新編 新しい社会 歴史」
   帝国書院「社会科 中学生の歴史」
   正進社 「歴史の資料(標準版)」
   山川出版「詳説日本史B 改訂版」
       「日本史用語集 」
       「詳説日本史史料集」

  おことわり

あくまで歴史の苦手なkelo太郎のために作った「歴史講義」の記録ノートです。歴史学的な観点から、細かなご指摘があることは、充分に理解しております。この情報が入っていないとか、この年号には諸説あるとか。あくまでも、中学校の歴史教科書を理解するためのガイドとして、ご覧いただければ有り難いです。(kielo)


最後まで、読んでくださり、ありがとうございました。近々、「困っちゃったわ、中大兄皇子」のノートを公開します。のんびり、待っていてくださいね。


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